vol.8 ゴーマンかましてよかですか

白紙撤回となった国立競技場のザハ案にどうこうって話じゃないので誤解してほしくないんだけど、無駄で華美な建築ってのは世界史上、沢山あるんですね。建築だけじゃなくて宝石や服だって同じ。「民が苦しんでるにもかかわらず無駄」とか、「質素な平民とは比べ物にならずケシカラン無駄」的な時代背景って、100年経ったら怒りは無いですよ。だって、ピラミッド見て、憤る現代人って居る?居ないでしょ。ナントカの秘宝展で憤る人も居ないですよね。一方で民を苦しめたのだとしても、一方で芸術や文化を育んだのだとすれば、それは「万人にとっての悪」とは言い切れないワケです。「無駄に」掛けたゼニと時間と血と汗と涙によって出来たものは、本当に全て「無駄」なのかっていうと、そうじゃないだろうってことなんですよね。「無駄」とは「ゼロ」ではない。ゼロなら、何を掛けても永遠にゼロですもんね。算数でも。


ヘラ釣りもおんなじですよ。僕が夢中になった頃はまだ、平日例会を開催する大きなクラブが元気な時代で、毎日釣りをしていても許されるような旦那衆が、沢山居ました。バブル景気もあったと思います。そういう方々に「カッコイイ」とか「羨ましい!」と感じたことも、「バカじゃねぇの?」と感じたこともあります。「ふざけんなよ。3日も前からプラとかゼッテー敵わねーよ!」とかね。僕自身、半日だけ仕事して午後から釣りってな時代を数年過ごしているので、同じように見られていたと思いますが、週に一度釣りに出かけられれば御の字の、「マトモ」な方々では到底成し得なかった探求の成果が、そういうヤクザな先輩方の手によってもたらされたんだという「現実」の認識は必要です。現在もSNSでたまに見かける「カネに糸目を付けない」的な投稿には吐き気がしますが、道具道楽な一面もこの趣味にはあるので、やっぱり竹竿も必修科目なんですよ。いつかはね。旦那衆の「粋」を解さないくせに「粋」を語る輩も多くてウケますが。


で、世界史を見ると、時代の変わり目には必ず「救世主」が現れるんですね。さっき書いたように、ものごとを冷静に見ていれば、万人にとっての「悪」も無い以上、万人にとっての「救世主」もあり得ないワケです。でも、そこは無自覚な洗脳でね、自分で考えて支持を決めたことに脳内変換されていきます。

「我々庶民にもヘラ釣りの楽しさを味わう権利がある!」

これは正論ですが、「一部の富裕層の遊びじゃないぞ!」ってのは間違いですね。もともとは富裕層の遊びです。バカな旦那衆がはしゃぎ過ぎたせいで、庶民の反感を買ったのは理解できます。このままじゃマズいというムードが、カウンターを繰り出させた時代背景も理解できます。が、出発点をねじ曲げてしまうから、おかしなことになっていくワケですよ。そんな出発点はそもそも「無い」から、戻れないんです。ブレーキが効かないんですね。

「我々庶民の手にヘラ釣りを取り戻すぞ!」

いやいや、だからそうじゃないだろ(苦笑)

「サラリーマンに自由になる時間には限界がある。だから管理しかやりません!」

「そうだそうだ!」

「セットしかやりません!」

「いいぞいいぞ!」

数は力です。いろんな遊びを知り尽くした旦那衆が夢中になったヘラ釣りは、庶民にとっても面白い遊びに決まってます。竹竿専門店なんかだと、いまだに富裕層メインに相手にする商売なんだろうけど、メーカーはもう違うよね。


世界史上の革命ってみんなこう。他人が築き上げた文化の強奪と破壊。何十年も経ってから後悔するの繰り返し。

新しい価値観を全否定するつもりはないけれど、歴史を学ばずに語るのはいかがなものかと思うよね、やっぱり。管理釣り場だけで完結する世界なんだと言われたらそれまでだけど、魚釣りという括りで考えたら、エキスパートになるつもりならば、様々なフィールドでの経験が必要なんじゃないのかな。地形を読み、風を読み、っていうね。天気図なんて読めなくてもいいから、とりあえずその瞬間にその場に立って、ヘラの気持ちになれるかどうかって。だからつまり、いまの人は「ヘラ師」ではなくて、「管理師」だよね。いや、「管理厨」だ。「ハコ師」とはあえて呼びたくない。それは歴史上、大事な用語だと思うから。


管理池を競技会のステージにすることに、異論はないんですよ。変化に富んだ野釣り場よりは公平性が高いようには思うから。ただそれで、主戦場だからと管理専門の釣り人になるのは違う気がする。ゴルフに喩え、管理釣り場が打ちっ放しの練習場で、野釣り場がコースとよく言われるけど、僕はそれは少々言い過ぎだと思うよ。管理専門の人から見たら、「ヘラの偏差値がまるで違うぜ」ってなるしね(野釣り師から言わせれば、食い方云々の前に食いに来ないぜって話だけどねw)。だから僕は、管理を打ちっ放しと喩えるのではなく、「ドラコン」、「ニアピン」と喩えるのが良いと思っている。それぞれが「練習」ではないホンモノの「コンテスト」。ただし、ゴルフの、コースの、一部でしかないよってね。だから、そういう危ういレギュレーションで戦っていることに無自覚でありながら、運良くアイデンティティを感じられている人達がホント憐れ。


木を見て森を見ず、って言葉がある。なんか最近どこかで、木を見て森も見る!とかいうキャッチコピーを見かけた気がしますが、ミクロとマクロの話ですね。一本一本の木に注意を奪われると、森全体を見ないって話。これは笑い話なんだけど、たった一本だからと、枯れようが何しようがどうでもいいってロクに手を入れずにいたら(とはいえ、その一本だけは気にして見ていた)、実は全体に波及してしまっていた、ではないよね。つまりミクロで真摯に向きあえば、マクロも解決するよって話じゃなくて、逆の、一本の木だけ生かす方法論では、森は育たない、だから間引く、の方でしょう。「ある事象」に対し、それなりに深い世界があるのだとしても、森の中の別の木には全く通じない考察なら、あまり深追いしても無駄ってことです。もちろん、そういう無駄の集まりが「知」ですが、その探求の前にやることがあるだろって感じる方が多いと、僕には見えます(エナリゴトキガナマイキサーセン)。


レギュレーションが生み出す攻め方は、釣りの本質とかけ離れていると思うから、僕はあまり興味が無いですね。釣り人側の都合で、本来ヘラの本能にはない規定を勝手に引き、安全地帯をプレゼントした上で、ギリギリより向こう側を攻める、とかね。大人気ないと思います。「こうやれば釣れる」ってのが判りきっているところは、触らないのが「遊び」じゃないですかね。グローブを装着して殴りあうボクシングでも、ナックルダスター(メリケンサック)を仕込んであったら相手を倒せます。ヘタしたら殺せます。違反ですが、レフェリーが見落としたら勝てます。そんなんで楽しいですか?ってことですよ。


いま、ヘラ釣りは皆で考え直す時期に来ていますよ。間違いなく。それは、「どういう競技規定が良いのか?」なんて生やさしいもんじゃないです。

「何のためにヘラ釣りをするのか?」

コレです。それぞれが自問自答して下さい。


僕は、「釣りは哲学」だと思っています。

もともと魚釣りは漁です。それを、キャッチアンドリリースという趣味にまで昇華したのであれば、目指すべきものは初めから決まっていると考えています。釣った魚を食べる釣りであっても、遊びであれば、ボウズになってもそんなに困りませんから、やっぱり哲学だと思いますね。釣りは独りでも出来ます(出来ない人はヤバイかも)。魚と対峙することは、自分と向き合うことに繋がってきます。他者が存在してはじめて自己が切り取られる訳ですが、他「人」はそんなに長い時間付き合ってくれませんからね。技術を磨くことは、魚と会話するための言語を学ぶ行為です。幼いころ、独りでも釣りに出かけていた江成少年は、無意識にすでに知っていた筈の目的です。だもん、結果なんて出さなくったって吠えるワケですね。目指しているものが違いますので。

いま、こういう視点を持ち合わせないアングラーが多いと思います。だから、競技の結果にばかり拘る。競技が技術(会話術)の進歩に貢献したことは否定できない事実です。ただその存在意義が、行き過ぎた価値観に置換されてしまっては本末転倒です。僕自身、20代の頃は錯覚しましたが、「他人に勝つ」ために魚を釣るのではありません。強いて言えば「己に克つ」ためです。そう悟ったら、スレはサクッと捨ててください。前回も書いたけど、交渉不成立の行為は強姦と同じです。


究極の目的を哲学に置きつつ、「ゲームとして」他人と競うのも良し。仲間とワイワイやるのもアリ。そういうことだと思いますね。簡単に結果が出ること自体がオカシイ。中には天才も居るでしょうけど、ヘラに限って天才が多いのもオカシイです。歴史のうねりの中で、意図的に矮小化された世界で、勝った負けたと一喜一憂させられているんですよ。ノセられているんです。リアルな社会で居場所を見つけられなかった寂しい現代人を、簡単に結果が出るかのような世界を用意して(捏造して)呼び込んでいるワケですよ。いつまで良いカモにされてるの?って話です。価値観を押し付けるなって反論の前に、自分の立っている場所をもう一度よく眺めてみて欲しいと思います。


誰も悪く無いんですよ。その時その時で、皆真剣にやりました。底辺拡大を考えた時、サンデーアングラーでも夢を見られる環境整備は業界にとって急務だったと思います。年間レースよりメジャートーナメントの価値を高めるために、沢山のスターが血の滲む努力で連覇や複数回の優勝をし、一発勝負もフロックでは獲れないことを証明してみせました。現代トーナメントシーンの立役者であるオカキヨやスギタツ達に罪はありません。混雑とプレッシャーによる食い渋りを前に、セット釣りの研究も進みました。現在のセット釣りに繋がる基礎部分は、「経験年数とセンス、勘に頼った釣りはノーサンキュー。全ては理論で説明できる筈」と考えた僕ら等々力一派が開発した自負こそあれど、罪悪感などありません。ただ、さんざん笑われながらも市民権を得るまでに育てながら、現在は偏った志向の釣り人の象徴のように捉えざるを得ない状況は、寂しくもあります。大事なことは、志はどうであれ、この20年は「失敗」だったってことを素直に認めることです。失われた20年を30年にするのか、20年で終わらせるのかは、我々次第です。つか、30年もたないでしょう。あと10年。。。富裕層、庶民、トーナメンター、例会師、ダム師、そういう垣根を超えた全てのヘラ愛好家にとって、「ホンモノのヘラ釣り」を、見えざる手から取り戻す最後のチャンスは、イマ、のような気がします。簡単です。勇気をもって、意識を変えるだけです。様々な思惑が絡み合い、誰の意志とも呼べなくなった洗脳から、ひょこっと目覚めるだけです。

 

2015.8.1 江成 公隆

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